2009/04/30

大阪で

5月15日
大阪南船場のURBAN RESEARCH DOORSにて、スターネットの馬場さんの講演があります。
大阪の友人には、ぜひ聞いてもらいたいです。


僕は薄情者なので、あまり人に報告せずに栃木に来たので、僕がなんで栃木に来たかを、大阪の友人に知ってもらえる良い機会だと思っています。

サダがどーこーはどーでもいいのですが、都会にいると見えない事が見えると思います。
当日は僕も行くので、久しぶりに会えたら嬉しいです。
都合がつく方はぜひ。


URBAN RESEARCH DOORS

2009/04/29

上顧客

こんな話を聞いた。
ある作家さんが陶器市の際に、仲の良い友人宅に宿泊する。
仲の良い友人の1人に陶器市や展覧会でよく器を買ってくれる人がいる。
僕は「友人・仲間」という関係の中で宿泊したり、家を行ったり、来てもらったりしているのかと思っていた。

しかし、その作家さんとよく知る人が「よく買ってくれる上顧客を大切にして偉いよね。」っと言った。
よく意味がわからなく、「上顧客とか思っていなさそうに見える。」と返したところ、
「いや、そう思っていると思うよ。」と言う。


僕の認識では、その作家Aさんは陶器市の機会に、普段から親交のあり、Aさんの器をよく買ってくれるBさんのところに宿泊するのは「友人・仲間」という関係の元、家に泊まりにいっていると思っていた。
しかし、そのAさんと親交の深いCさん曰く、泊まりにいくのも含めて、よく買ってくれる顧客を大切にしている行為だという。確かにおもてなし好きのBさんはAさんが泊まりに来るのは、実際喜ぶし、そういった場所でお互いの関係を築いていると思う。


ただ、僕はAさんがBさんのことを「上顧客」っと思っているという話が意外でよく分からなかった。実際CさんはAさんとかなり深い関係でもあるから、Aさんを深く理解した上で言っているのだと思うが、初めはよく買ってくれる上顧客だから泊まりにいくっというように聞こえた。
その後「たぶん分かってないと思うから、頭で考えないでね」とCさんが一言。


Aさん、Bさん、Cさんそれぞれが、お互いにある程度親交があり、僕から見ると友人・仲間っといった関係に見えるのだが、作家ではない僕はここでいうところの「上顧客」の意味がよく分からない。
多分、普段買ってお金を落としてくれていることへの感謝の気持ちのようなものなんかなっと。



作家は作って売ることで生活をしている。作家に限らず商売というのは売れないと意味が無い。作家の立場になったら、やはり買ってくれる人はありがたい存在だし、大切にすべき存在であるのは当たり前だと思う。


その反面「上顧客」というは、もし買わなかったらどうなるんだろうと考えた。
よく来てくれるが見て買わずに帰る人は「上顧客」にはならないのだろうか?ならないよな。
少なからず、好きで来てくれていて、経済的事情などで買う事はできないが好きだという共通の想いがそこにある。


売る側はお客さんの「好き」という想いだけに答える事はできないのか。
自分が言わんとする事はきれいごとなのは十分わかっているが、売り買いの関係で成り立つ「上顧客」という言葉に違和感が生じた。買ってくれる人=お客さん、顧客さん、売り手と買い手である前に人と人やんっと思う。


そのお店が好きでよく来てくれるお客さんに対して、「あの人はよく来てくれるが、いつも買ってくれない。どーせ買わない。」っと売り手が思うのは仕方がない事でもあるが、なんか悲しい。
別に僕は自分で商売をしている訳じゃないから、いざ自分で商売をしてみないと分からない事が多いだろう。



よく行く場所に、那須のショーゾーカフェがある。
車で2時間程かかるのだが、その場所の雰囲気はスゴく良い。
スタッフが皆長く働いている人が多いようで、人が作り出す雰囲気がスゴく好きだ。
ショーゾーにいくと「こんにちは」っと言って迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」の前に「こんにちは」っと言ってくれる事が多いのだ。
僕はお客だが、最初に「こんにちは」と人と人の挨拶からそこは始まる。
カフェだからお茶をしないなら入る事はできない。
小さなことだけど、また行きたくなる。



話はズレて、自分の中でまだまとまっていない事で、よくわからんくなってきた。
売り手とお客さんの関係って何なんだろう。
もう少し考えないと。

2009/04/24

お花見

家の横の八重桜が満開。
少し遅いお花見。っと言っても寒かったので家の中でお食事会。
僕らは時たま仲間うちで集まり、飲んだり食べたり呑んだりする。

益子には9時以降営業している飲み屋が無い。
9時なんて一番楽しくなる時なのに、それまでしか営業していないのです。
僕はその田舎らしい感じが好きだ。


例えば、「お茶する」っとなった時、田舎では「うちでお茶しよう。うちでお茶を飲んでいきなよ。」と大体そうなる。皆で「呑もう」っとなった時は、皆がそれぞれ自分の呑むお酒と料理を持ってきて、ちょっとしたバイキング状態になる。ある人は手作りパンを、ある人は肉料理を、ある人は煮物を、ある人はサラダを、ある人はデザートを....。人が集まれば集まる程バリエーションが広がるし、僕らの仲間うちは料理上手が多い。
僕はその「手が入った感じ」が好きだ。


お茶をするのに素敵なカフェにいくのも良いし、呑むのにいい雰囲気の居酒屋にいくのも良い。
ただ、自分で美味しくいれようと思いながらいれるお茶と、お店で注文するお茶は違う。人が何を作ってくるか!?なんて考えながら作った料理と注文した料理もやっぱり違う。
僕もカフェでお茶もするし、居酒屋にもいく。
どちらが良いという訳ではないが、でもやっぱりお金で注文する料理と作った料理は違う。
そりゃ、プロが作るから味は違うし、場所も違うので比べる事はできないと思う。


料理に限らず、考えて思いを込めて、工夫しながら作る行為が「クリエイティブ」だと言え、
「クリエイティブ」は心だと思っています。


昨日、会計士の先生を宇都宮に送る際にこんな話をしてくれた。
コンピューターをはじめ、便利になり過ぎて脳の働きが衰退し、頭(考える力)が悪くなっていて、ゲームをはじめとしたリアリティのないモノが増加していて「心」が衰退していっている。


この前、奥さんと奥さんのお姉さんとのやり取りで
嫁:「タケノコに使う木の芽を家の周りに無いか探してる」
姉:「えっ探すもんなん!?スーパーで買うんちゃうんやん!?」
っという話をしたと聞いた。
ほんの少し前に「ふきのとうをスーパーで買った」っという東京の知人がいた。
僕の家の脇には小さなふきのとうがなっていて、奥さんがそれでフキ味噌を作ってくれた。


リアリティっという側面を考えるのであれば、暮らしの中にリアリティがあるのは間違いなく田舎です。リアリティがある田舎暮らしが良いとかではなく、都会には都会の暮らし方があって、田舎には田舎の暮らしがある。


場所がどこであろうと、僕はみんなで持ち寄る集まりが好きだ。


都会的価値観と田舎的価値観。その間に新しい価値観があるような気がしています。

2009/04/21

噛む

朝食を食べている時に正面にいる嫁さんが「よく噛んで食べ」っと一言。
大飯食らい僕は、一噛みで飲み込んでしまう。

先日、日記に丁寧を意識するという事を書いたのにも関わらず、味わうというより食う。
俺は何て野性的なんだろう。
もう少し素材を味わい、四季のうつろいを楽しむ、風情ある日本人に近づきたいものだ。


「日記に書いていたけど、絶対にせーへんと思った」と嫁さんがチクり。
流したけれど、頭にきた。
噛みますよ野菜が液体になるほど、噛みまくってやる。
今日から僕は噛みまくる!


冗談はさておき、しっかり命の素材を味わいたいと思います。
目指すは風情ある日本人!?

2009/04/20

27

歳になりました。
ありがとう、ありがとう。

今年は大きな1年になりそうな予感。
頑張るぞい!

2009/04/19

想いが込められた文章というものがある。
僕はそういったものは好きだ。
想いがこもっているってのは、文が上手い、下手、そんな事はどーでも良く思えてくる。


伝えたい想いは伝わる。


昨日書いた沼津の藤原さん、「コンフォルト」という建築デザイン誌のエッセイを見て馬場さんのところにきたらしい。藤原さんと同じ「コンフォルト」を見て、友人の高田君はスターネットに訪れて7年間勤め、卒業し、結婚、現在は益子で大工をしている。
その雑誌に連載されていた記事をまとめた「自分の仕事をつくる」という本を読んでスターネットに入ったのが僕だ。
皆同じ記事に導かれ出会い、同じ価値観を同じ場所で共有していた。


リビングワールドの西村さんが書いた記事が少なくてもこの3人を馬場さんの元に導いた。
「自分の仕事をつくる」を読んでスターネットに入社したのは僕だけではないし、スターネット以外に「自分の仕事をつくる」で取り上げられているデザイン会社やパン屋等に導かれた人、転職した人、仕事の仕方を変えた人なんかもいると思う。
「働き方研究家」と称し、西村さんが書籍とした仕事は、身近な人に大きな影響を与えていた。
「人を動かすのは感動である。感動は人の行動に変わる。」そんな話を聞いた事がある。
仕事とは相手を感動させることでもあるように思う。


結果として、西村さんが伝えた「想い・感動」が僕たちを出会わせた。
それぞれ他人である藤原さん(沼津)と高田君(栃木)、そして自分(神戸)が、西村さんの記事を見たことで、出会い、一カ所に集まっているのを見て、そんな事を思った。


これを縁というだろう。
繋がるべき人とは必ず繋がる。繋がっていると僕は思っている。

自分で貪欲に得る

珍しく出張。
静岡県沼津にて、馬場さんのイベントのお手伝い。

沼津に「ケンブリッジの森」というカフェがある。
ケンブリッジの森の藤原慎一郎さんは自身曰く「馬場さんの弟子」。
僕がスターネットに勤めだして3年近く経ちますが、藤原さんほど馬場さんを師と仰ぐ人はいない。今回の機会で藤原さんの馬場さんに対しての想いを知る。


自分より馬場さんに貪欲に学びを乞う藤原さんを見て、自分の甘さと意識の低さを痛感する。
少なくとも僕は馬場さんから多くの事を、仕事を通して学びに来ているはずだ。
けれど日々の忙しさを言い訳に、それを満足にできていない事を「忙しいから」としている。
おいおい、そーじゃないだろ。

最近、良い意味でいろんな事をどーでも良いと思えるようになってきた。
それはそれ、これはこれ、あれはあれ、あなたはあなた、私は私、みたいな感じで。
現在、ようやく馬場さんとも何かを共有できるようになってきた感じがある中、
足りないのは自分の貪欲さ、そして情熱だ。
藤原さんから感じたのは、愛と情熱、感謝だった。


益子の大工の高田君も沼津に来ていて話していたのだが、高田君が見る佐田像のかけらを聞いた。よく見てくれている事と的確な意見と感想が自分の中で嬉しく思えた。自分が磨くのはそこだなっと思う。
気付けば益子で得たものはあるが、自分で得たものもあれば、与えられたもの、環境の中から勝手についてきたものもある。


ただ、自分で貪欲に得る事が一番大きく積み重なっていくという事を、意識していきたい。

2009/04/17

こつこつと地道にやるしかない

朝から結婚式のドレスの試着(奥さんのね)。
いつ見ても和子さんのドレスはきれいだ。


和子さんとは馬場さんの奥さんで元々ファッションデザイナー。自身のブランドも持っていた。皇后美智子さまの専属デザイナー植田いつ子さんの弟子でもあるという経歴をもち、オートクチュールという体に合わせながらパターンを作っていく技術で洋服をつくる。


以前、和子さんが特集されていた記事を読んだ。
僕の年齢の頃は、給料の何ヶ月分もするブランドの洋服を買っては、どのような作りになっているかバラして研究していたらしい。奥さんがドレスを着ている時にその事を思い出した。
奥さんの着ているドレス一つ一つは、和子さんが多くのブランド品の服と引き換えにし、これまでずーーーーーーーーーーっと、蓄積されたものが技術として、目の前のドレスになっている。
コツコツと蓄積されたものがドレスとして形になっている。


そんな事を考えていたら、奥さんがドレスを着させてもらえるという事が、和子さんの愛情の全てのように思えた。優しい言葉をかけるでも無く、何かを与えるというのでもなく、コツコツと蓄積した時間の一部を分けてくれるということのスゴさというか...。
横軸ではなく、縦軸なんですよね。


6月にするウェディングパーティは、ドレスをはじめ、お花、写真、会場、企画、もの、ウェルカムボード等々、多くの人に協力してもらう。お金が無いので好意に甘えながら。
それぞれ、皆プロとしてやっていて、それぞれの縦軸を僕らに分けてもらう。
幸せとしか言いようが無い。


僕には他人に分ける事のできる縦軸が何もない。
このブログも自分の力に変えたいし、コツコツと蓄積していく事が「自分」になるのかな。


「自分探し」の旅をする人はいるが、横軸ではなく、時間という縦軸での旅でこそ自分が見つかる(自分になる)気がした。
言っている意味はちんぷんかんぷんになってきたが、結局のところ、こつこつと地道にやるしかないと思ったのです。

2009/04/15

とりあえず考える

やる前から、やろうともせず「できない、無理」っと聞くのは好きじゃない。


できるかできないかを考えるより、自分がしたい事を「どうしたらできるか」を考えた方が健康的だと僕は思う。勢いでやるというのではなく、一先ず考える事をしたら良い。考える事は誰でもできる。


考える前に、無理だから無理。
少し考えて、大変だからやらない。
とことん考えて、やめておく。
メチャメチャ考えて、違う方法を探す。
同じやらないにせよ、結果として”何かが残る「やらない」選択肢”があるんじゃなかろうか。


大切なのは自分と自分の周りが幸せであるということだと思っています。
とりあえず、考えるところから、僕ははじめたい。

2009/04/14

須田が池の畔の陶板

毎日書こうと言ったにもかかわらず、3日目にして断念。3日坊主。
やってみて思ったのは毎日ブログを書くというのは大変だなっということと、
続ける事によって、少しは表現力は上がるなっというのは実感として思った。
自分の感じた事を言葉にするのは大変だが、文章にするのはもっと大変ですね。
続けるというのも大変だ。



毎朝、スターネットの前の道路を掃除をする。
スターネットの前にある須田が池の畔に小さな休憩所みたいな所があって、そこも一緒に掃除をしている。あるおっちゃんがその休憩所の地面に埋まっている陶板を見て「なかなか良い陶板だねぇ」っと言っていた。陶板が埋まっているのは知っていたが、改めて見てみると陶芸の町益子らしい味のある画が描かれた陶板がそこにあった。
すごくショックだった。
毎日毎日掃除していて、3年近く見ていたのに対して気にも留めていたかったのだ。


今読んでいるドラフトの本のまえがきにこんな事を書いている
「デザイナーになる人は皆ある程度の技術を持っているわけで、本当は、見ているか見ていないか、感じているか感じていないかが大切なのです。」
これはデザインという職能に限った事ではないと思う。

自分が感動するもの大体のものは、よくこんな視点でモノを見てるなぁとか、こんな解釈の仕方もあったんだ!といった、斬新という訳ではないけれど、新しい視点・観点を形にしている、表現しているものが多い。


池の畔の陶板を見過ごして3年、改めて自分の観察力の低さを思い知らされた。
普段の食事にしても一つ一つ味わい、食を噛みしめるようなコトや、近くにいる人の何気ない変化や、空気、季節のうつろいまで、いろんな事の感じ方が希薄になっていた。
身の回りの事を一つ一つ意識した習慣や生活を「丁寧」というのかもしれない。


そういった解釈で「丁寧」ということを考えると、常に意識を身の回りにやらなければならない、すごく気の張った緊張感ある行為だといえる。それが習慣になり、普通に落とし込めたら何てスゴいんだろう。
まずは目の前の事を一つ一つ丁寧にしていきたいなっと思う。

2009/04/13

人は"自分"を表現する為に生きている

今日は終日職場でカフェの手伝い。
皿洗いやら珈琲やら、人数が少ないところなので、全員で回さなければならないのである。
だから、僕も自分の仕事ばかりすれば良いという場所でない。


職場で馬場さんを除いて男は僕だけ。
女所帯ということもあり、控えめの人が多いというか、あまり思っている事を口にせず、必要最低限の当たり障りの無い会話が多い。プライベートではまた違うのだけど...。だからミーティングをしても何かと当たり障りの無い事を言って、とりあえず発言していますみたいな...。
仕事なんて疑問と矛盾との戦いで、ある種その疑問や矛盾をクリア、解決する事が仕事であって、疑問は無い、でも不満はあるみたいな。
さて、それで良いのかな?


今僕らが結婚式のプロデュースをお願いしているユカリさんという女性がいる。大学での先輩で僕には欠かせない人である。この人が居なければ今益子には居ない。ソーユー人。
このユカリさんが面白い。前の仕事がファシリテーターという職能についており、松木正さんというファシリテーターの下で仕事をしていた。ファシリテーターとは
  • ファシリテーション:Facilitation)とは企業内の会議の場などで、発言を促したり、話の流れを整理したり、参加者の認識の一致を確認したりする行為で介入し相互理解を促進し、合意形成へ導き組織を活性化(協働を促進)させる手法・技術・行為の総称。 コミュニケーションスキル以 外にも、グランドルールが必要な場合の設定内容の検討、ミーティング自体の進め方なども含み、さらに会議の場所や参加者の選択、日程のデザインなど、オー ガナイザーの役割を含む場合もある。 会議の場に限定せずとも、日常での組織コミュニケーション全般において、ファシリテーション技術は活用することができる。 また、会議の場などで、コンテンツ(議論の内容)に対して公平な立場にたち、話し合いのプロセス(流れ)に介入してファシリテーションを行う者のことをファシリテーター(Facilitator)という。    『ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋』
上記は参考として、僕の持っているイメージではその人の心の中に潜んでいる自分の中心みたいなものをすくいあげて、気付きを学びに変えるような能力の事だと思っていて...。
先日、結婚式の打ち合わせで神戸に帰った時にユカリさんとの打ち合わせが面白かった。


ユカリさんは結婚式のプランニングも「ものづくり」と称す。
まず、自分が企画する上で大切にしている事を伝え、その後、自分たちが呼ぶお客さんはどういった人がいて、それぞれが自分たちにとってどーゆー人達か、だから自分たちがその人達に何をしたくて、どーゆー想いで何を伝えたいのか?っで、どーゆー式にしたいのか...。アウトラインから中心を決めていく。
ソーコーしている内に、気付けば自分たちが気付いていなかった結婚式への想いみたいなものが、ユカリさんの結婚式のプランニングにしてはあまりにも大きいスケッチブックの上に記されているのだ。これは驚いた。
何気ない対話に自分の中の想いがすくい上げていかれているのだ。


その後、うちの家族とユカリさんで食事をすることになり、ユカリさんが自分が何をしているのか紹介して、そのハツラツさと自分は誰かとハッキリ話すユカリさんを見て、母が「こんなに自分を表現できているなんて素晴らしいね。」っと一言。
その一声がずっと残っていて考えていた。

音楽を作っている人間も、野菜を作っている人間も、デザイナーや建築家や教師、編集者、営業の人も、販売員、事務をしている人等々....。いろんな人間が様々な職種を選んで、それぞれ仕事を通して自分というものを投じているわけで。プロであるという事は実は「自分を表現している」という事なのかもしれない。
むしろ、仕事に限らず人は「自分を表現する為に生きている」というのは言い過ぎだろうか?


年末に東京で安藤忠雄展がやっていて、「住吉の長屋」の原寸模型があると聞いていたので足を運んだ。その日はたまたま安藤忠雄の講演があって、ほんの少しだが話を聞く事ができた。そこで言っていたのは「近年、日本は効率化、均一化を図って現在に至る。しかし、人間まで均一化してしまってはダメだ。」という話をしていた。

僕らは小さな時から、特に学校教育ではあーしろこーしろと言われ、する事を与えられ答えを用意されながら育てられてきた。その中で少し人と外れた人、常識のない人間がいたら、後ろ指を指す。常識は常識で理由があって、常識や礼儀がある。それはそれで大切だが、そこから外れた人間を後ろ指さすように見るのはどうかと思う。また、問題も答えも用意されて育ってきているので、用意されたものが無ければ、自分で作る事が出来ない。


皆違う意見があって良いし、皆違っていいんだよ。
自分の道は自分で開いて、自分で歩んでいくんだよ。
頭で分かっている人は多い。
でも、そういった人間や場面に出くわした時にすっと受け入れる人は少ない。
僕もそうだ。


いろいろと脱線したが、皆それぞれ家族とか仲間がいる場所で「自分を出せる場所」があるのに仕事になると、常識だから、自分は悪く言われたくないし、自分を表現しにくい場所だから、表現しない人がいる(表現が下手とか出来ないは別の話)。
その反対に「自分を表現した仕事をしている人」がいる。
その差は何なんだろう?


僕は「人間は自分を表現する為に生きている」っといっても過言ではないと思った。
僕は何で自分を表現していくのだろう。

2009/04/11

愚痴

朝から職場の同僚の愚痴を聞いていた。
理由は職場での事なのだが、何かと気に入らない事が多いみたいだ。聞けばあーだーこーだと色んな事をいう。そこまで言わなくてもと思うこともあるし、適当にふんふん言っている俺も俺だなぁっと思う。


きっと彼女は愚痴を言って自分を消化しているのだろう。
ただ、僕自身愚痴を言うという事はそんなに悪い事だとは思わない。
むしろ愚痴を言っている方が人間らしくて良いなぁとも思う。
ただ、愚痴がエスカレートして悪口(悪愚痴)に発展してしまうと質が悪い。


っというのも自分も含めて愚痴を言う人は極端にいうと「あいつは間違っている自分が正しい」っていうことを他人に認めてもらい、相手に「あいつは間違っている」っていうことを共感してもらいたいのだと思う。極端な話ですが。


最近、そーゆーことを考えていたら、凹んだ。すごくセンスが悪い。
本当、愚痴なんて言っている時間や労力があるのなら、それを仕事や生活の事に向けた方がよっぽど有意義だと思うし、愚痴を言う人間の周りにはやっぱり愚痴を言う人間や自分は悪口を言われたくないのでそれとなくふんふん言いながら話を聞く人が多い気がする。

逆に、愚痴を言わない人には愚痴を言いにくいし、言えない雰囲気がある。周りに愚痴を言う人間は居ない。ソーユー人はとても魅力的だ。
ちょっと前に自分も愚痴を言い過ぎていたなって反省をして、最近では気をつけるようにしている。

類は友を呼ぶ。

相手に元気が無い!笑え!と言ったところで、ほとんどは何も変わらないだろうし、むしろストレスにしかならない。自分の尺度で相手に伝えるのでは無く、相手の尺度に自分を当てはめて、相手の持っているものを引き出す努力をした方がいいと僕は思う。
笑ってほしいなら、笑わしてやれば良い。
他人があーだこーだで、他人の事に不満を持って、自分がイライラするなんて本当にもったいない。そんなことをしたいんじゃないでしょ?っと思う。


そんな事を書いているこの日記も愚痴だなぁと思う。
他人に期待せず、自分の事をしっかりやるべし!


今日、パートのマドカさんが仕事をあがる時、「おつかれさまでしたー。」っとハツラツに声をかけてくれた。いや、とても元気があって素晴らしかった。マドカさんは良く喋るが疲れてきた頃もスタンスが変わらず、元気一杯なのである。この元気は伝染する。
元気を伝染させる。
周りが楽しくなると自分が楽しくなる。
これだな。


元気も伝染すれば、愚痴も伝染する。
どちらを伝染させた方がハッピーかというのは一目瞭然である。
さて、自分にできるかな?


今日は桜吹雪がスゴかった。本当に綺麗だった。
天気がすごくよかった。青空が気持ち良かった。
ドラフトの本を読んだ。読むのが楽しみになった。
今日はマドカさんが元気で周りも元気をもらっていた。
岡崎さんと少しだがいろいろ話せた。
帰ったら美幸が畑用のかわいい看板を作っていた。
カフェのドリンクが込み合うとまだスムーズにまわせない。明日はもっと上手くできる気がする。

今日もしょーもない事で感動した。

2009/04/10

サクサクラ

日記を書こうと思った。
ずっと何となくは思っていたのだが、毎日書こうと思う。


理由はいくつかあって、自分の思った事を文章に起こすという事の練習。
自分の感じた事、思った事の記録。
主にこの2つが目的。

これまで思った事に関しては、時折ノートに記してきた。
ただ習慣というのではなく、書いたり書かなかったりして来たので、それを習慣にしようと思った。
キーボードで文を打つのは嫌いではないし、人が見る事によって、書く事にも責任が出てくると僕は思っているので、とりあえずブログという形で続けていこうと思う。


自分がどーこー思ったり、あーだこーだしているうちに、須田が池(スターネットの前の池)の辺りのサクラは満開。サクラの開花がやっぱり一番春を感じる。
「散る桜  残る桜も  散る桜」という良寛の詩を
「咲く桜 つぼみの桜も 咲く桜」っと益子の陶芸家成井恒雄さんは唄い直す。
こんな唄い直しは、相当な心を持ち合わせていないと唄えないと思う。

僕なんてまだまだ甘ちょろくて、まだまだ浅い。
今年は知識と教養の幅を広げて、仕事と生活に深みを持ちたい。



今日は朝から6月の結婚式の招待状を書いていた。
70人位に手書きで短い手紙を書いた。
手で何かを書くという行為が大切というか、やっぱりキーボードで打たれ印刷された物と手で書かれたものは違う。アナログの魅力というより、リアルであることが大切だと、僕は思っている。

手紙を書き終えてから、東京から茂木に引っ越して来た某雑誌元編集長Oさんの家を見に行く。古い平屋を大工である友人の高田君が改装。施主とペンキで壁を塗ったり、一枚一枚丁寧に杉板を床に張る。そういった高田大工の仕事一つ一つに僕はリアルという確かなものを感じる。
うちの家もそうだが今では効率を考えた建材が多く、プラモデルのような家が多すぎるように思う。住宅に限った事ではないが、何となく当たり前になっていて、失っている感覚は多い。
これからOさんは茂木で何をしていくのだろう?また今度ゆっくり話をさせてもらいたいと思った。


朝、小鳥達の鳴き声がすごくきれいだった。
招待状が大方書き終わった。
ダイリーさんが元気そうだった。
高田君の仕事は相変わらず丁寧で素敵だった。
春、本当にサクラがきれいだった。
お風呂から満月が見えた。
嬉しい事があった。
今日も沢山感動する事があった。


サクサクラ ツボミノサクラモ サクサクラ