2009/07/24

蓮の花

を美幸と見に行った。
茨城県の北の地域は日本一の蓮根の生産地だそうです。

美幸が月に一度お花教室にいっていて、そこで教えてくれている先生が茨城県土浦市から1時間半かけて益子に来てくれているのですが、土浦の蓮畑を案内してくれるという事で2人で春さん(お花の先生)のお家にお邪魔しに行ってきました。


春さん宅に着くや否や蓮畑へ直行。
高台から見えた延々と広がる蓮畑には圧巻。
こんなに蓮が咲いてるだなんて!一生分の蓮を見ました。
蓮といっても蓮根の栽培用の蓮なので、公園やお寺で見るような物とは異なり、傘のような葉がうっそうと繁り、見渡す限り葉、葉、葉、たまに蓮の花、蓮のつぼみ。蓮をこんな形で見る機会があるだなんて想像出来なかったので、感動。というより驚き。
ちらほら見える蓮の花は見るからに柔らかく、まるでティッシュペーパー一枚に広げたような花びらがつぼみにくっついている...そんな繊細な印象を受けました。実際、蓮の花は一日で散ってしまう一日草だそうです。
※秋に咲く月下美人も一夜限りの花ですが、蓮と何処となく雰囲気が似ている気がしました。


春さんはたまに蓮を見に来るらしいのですが、蓮根農家の方々に言わせると「蓮を見て何が良いんだ?何でわざわざ見に来るんだ?」みたいな感じだそうです。あまりにも日常過ぎて、その美しさが善くも悪くも当たり前すぎるのかな?だから僕らが蓮を見るような感動はないのかな?という話になりました。その時はそうなのかなと思った。


しかし、僕が尊敬する農家の山崎さんは、毎年ジャガイモの小さな花をきれいだろ〜と言います。夏に畑で食うトマトとキュウリが旨いんだよと自慢します。秋に田んぼに水を入れる時、稲達に「よく頑張ったなぁ〜喉乾いたろ、ほらたっぷり水を浴びるんだぞ〜!」と声を掛けていました。
生まれも育ちも農家の山崎さん、50年以上同じ場所で暮らし、過ごし、仕事をしている方ですが、それでも目の前の野菜や自然に対して鮮度のある接し方をしているように僕には見えます。
蓮根畑の生産者の方の中には、毎年蓮の花が咲く事が楽しみで仕方がない方もいるでしょう。
その反面、「蓮の花の何が良いんだ?」という方も居て、「ジャガイモの花がきれいか?」という方もいるだろうと想像できる。


その差は何なんだろうっと思った。
きっとそこの差は「愛」があるかないかじゃないだろうか?
そんな事を考えた。きっとそうだと思う。


上手くは説明できませんが、自分が尽力し、手間をかけたもの、かつ自分で気に入っている物は他人に言いたくなるし、見て欲しくなる、聞いて欲しくなる。手を抜いたり、まぁいいかという思いで作った物にはそんな感情は湧かないはずである。
要はそこじゃなかろうかと思う。他人にこれきれいやろ?こんなことしてんだよ。っと言いたくなるような仕事の仕方をしていきたい。
どんなことをしていようが目の前の事と今の先の事。である。


話は反れましたが、蓮の花は美しく、つぼみは可愛かったです。


その後、春さん宅に戻りおしゃべりをしました。
また素敵な人とお近づきになれた気がして嬉しかったです。
僕が関西に戻った際には、遊びに来てくれて、お花教室もしてくれると言ってくれました。
いやぁ、本当にこれは実現しようと思います。
一つ一つの出会いに感謝です。

2009/07/18

養蜂

脱サラをして養蜂を始めた人と知り合う機会ができた。
サラリーマンを辞めて、独立して3ヶ月の駆け出しの養蜂家だ。


養蜂にまつわる沢山の話を聞かせてもらった。養蜂の世界の事、独立する為に必要な事、蜂の事、養蜂を始めた経緯、すごくいろんな話を献身的に話してくれた。
一言で言う事は出来ないが、養蜂で生活していく事は容易ではなく厳しい世界だという事。
独立した本人がやってみて想像以上に厳しく、やる前はもっと何とかなると思っていた。等々...。


これは養蜂だけに限った事ではないが、まず初期投資に費用が掛かり、販売ルートの確保に時間がかかるという事。考えればそりゃそーだと思うが並大抵の事じゃないと思う。物が無ければ営業も出来ない。物が出来ても売り先が無い。物を作ってたら営業する時間なんて無い。ある程度、販売できるだけの物を揃えて、営業して、販売して、って体制を整えている間は単純に収入がない。
特に第一次産業はそうだ。就農する人はそこで挫折する人が多いという話を聞いた事がある。


独立するのはやはり大変で、反対する人も少なくなく、奥さんを説得する事など、迷っていた時期も長かったようだ。その中で背中を押してくれた仲間もいて、「蜂屋になるんだ」と言葉にしてから10年掛かって、やっと独立できたという。


言うまでもなく、彼の表情は生き生きとしていて、これから蜂でやっていくという決意をした男の目をしていました。今日出してくれた蜂蜜の味は本当に美味しく、神々しくすら思えた。これは大げさではなく本当に。


大切なのは、雇われだろうが、独立だろうが、自分がどう生きていきたいのかっていう意思の元で、作る人、売る人、考える人、動く人って沢山の人が仕事という役割を果たして、その役割を一生懸命果たしているか、どうかって事だと思うんです。


僕は縁あって、知り合った養蜂家の蜂蜜を誰かに伝えたい、そして、仕事を通して何らかの形で扱わせてもらいたいと思った。

2009/07/16

見立て

馬場さんと話す。

先日来店してくれたお客さんに対する接客の説明が気になったという。
僕はお客さんにその商品がどう作られたかという事を簡単に説明したのだが、馬場さん曰くその物の価値は作る行程には無いからそこはセールストークに使わなくていい。大切なのはそのもの自体が美しいかそうじゃないかというところだという。

また、そのもの自体は馬場さんのアイデアを元にして、これを使ってこうを作る。という形で出来たのだが、「デザインしたのではなく「見立て」をしたんだよ。サダ君。」「デザインっていうのは見立てだから」と説明してくれた。

丁度、千利休の本を読んでいたので余計に胸に残る。

昨日、民芸以前の益子焼を目にする機会があった。
そもそも益子焼というものの定義は難しく、はっきりこの作り方・焼き方をした器が益子焼ですよーっといった定義が無く、現在の益子焼というのものは、濱田庄司が益子に残したいわば濱田民芸の名残が現在の益子焼ととらえられる事が多い。


民芸以前の益子焼というのは、つまり濱田庄司や柳宗悦が心奪われた元々あった益子焼の事だ。この焼き物はあるコレクターのコレクションなのだが、秋に益子で開催される「土祭」で展示させてもらえる物を先取りで見る事ができた。


濱田庄司が目を奪われたように、馬場さんが見立てたように、ただ単純にそのもの自体の美しさを見逃さないようにならなければならない。目を育てる。いい物は沢山見る。ちゃんと調べる。
デザインは見立てですか...。

お客さんにどう説明すれば、そのものの美しさが伝わるのかを考える。