っということを良く考えます。
自分の中ではボランティアの定義は曖昧でまだ良く分からない。
てんつくマンの植林でモンゴルに行ったときもボランティアだとは思わなかったし、アフガニスタンに行ったときもボランティアだとは思わなかった。ただ行ってみたかったから行ったっという感じ。実際にいづれも大切な経験ができた。
昨年、土祭の時もそうで別にボランティアだとか思っていなかったが、やたら益子の有志によってとか、皆ボランティアで作り上げている祭りといった打ち出しは違和感があったし、関係していた人間でさえ自分達はボランティアでやっているからなどと言うし、手伝わない人間の事をボランティアの意味を分かっていないとか言う人達もいた。
ボランティアなんて強制するものでも、皆ボランティアで参加しているなどと高々と声に出すもんでもないだろう。ギャラは出せないのですが手伝ってください。こんな面白そうな事ができますよ。やってみようくらいでいい。
僕が初めてボランティアという事を感じたのは、小学校6年生の時の阪神大震災だった。
幸いにも僕らは大きな被害にあう事は無かったが、当時ボーイスカウトに入っていたので炊き出しに行った先で、県外から沢山来てくれているボランティアの人達の印象が鮮明に残っている。とても頼もしく見えたし子供ながら有難さをひしひしと感じました。
きっと当時のボランティアの人は「しんどい」「負担が掛かっている」「大変」「あいつがやらないのに何で自分が」っといった事は決して思わなかったでしょう。協力したい、力になりたい、何とかしたいという人達が集まってきてくれた事だと思う。周りには亡くなっている方もいる、家が倒壊した方もいる、怪我している、そんな状況でそんな事は言えんだろうが、状況は違えど、ボランティアとはそういった事だと僕は思っている。
ヒジノワで現在開催している陶器市の企画も皆ボランティアでしていて、自分で時間を作り、自分の労力を費やし、ひとつの場を紡ぎあげている。なかなか参加できない事を残念に思いながらも、時間や労力を費やし動いてくれている仲間に感謝の気持ちでいっぱいだ。
実際に形ができてきて、やってみていろんな事が見えてきて、今後のヒジノワのできる事や課題、方向性、やる事が今回ハッキリすると思う。
負担だったという意見が出てくるのであれば「やりたくてやっている」「経験したくてしている」ことがボランティアという言葉でおさめる事がない。大切なのは継続できる事だよ。
まだボランティアという意味がよく分からないのですが、別に僕はお金をもらわずに行動する事をそんなに美しい事だとは思わない。
0 件のコメント:
コメントを投稿