2009/04/13

人は"自分"を表現する為に生きている

今日は終日職場でカフェの手伝い。
皿洗いやら珈琲やら、人数が少ないところなので、全員で回さなければならないのである。
だから、僕も自分の仕事ばかりすれば良いという場所でない。


職場で馬場さんを除いて男は僕だけ。
女所帯ということもあり、控えめの人が多いというか、あまり思っている事を口にせず、必要最低限の当たり障りの無い会話が多い。プライベートではまた違うのだけど...。だからミーティングをしても何かと当たり障りの無い事を言って、とりあえず発言していますみたいな...。
仕事なんて疑問と矛盾との戦いで、ある種その疑問や矛盾をクリア、解決する事が仕事であって、疑問は無い、でも不満はあるみたいな。
さて、それで良いのかな?


今僕らが結婚式のプロデュースをお願いしているユカリさんという女性がいる。大学での先輩で僕には欠かせない人である。この人が居なければ今益子には居ない。ソーユー人。
このユカリさんが面白い。前の仕事がファシリテーターという職能についており、松木正さんというファシリテーターの下で仕事をしていた。ファシリテーターとは
  • ファシリテーション:Facilitation)とは企業内の会議の場などで、発言を促したり、話の流れを整理したり、参加者の認識の一致を確認したりする行為で介入し相互理解を促進し、合意形成へ導き組織を活性化(協働を促進)させる手法・技術・行為の総称。 コミュニケーションスキル以 外にも、グランドルールが必要な場合の設定内容の検討、ミーティング自体の進め方なども含み、さらに会議の場所や参加者の選択、日程のデザインなど、オー ガナイザーの役割を含む場合もある。 会議の場に限定せずとも、日常での組織コミュニケーション全般において、ファシリテーション技術は活用することができる。 また、会議の場などで、コンテンツ(議論の内容)に対して公平な立場にたち、話し合いのプロセス(流れ)に介入してファシリテーションを行う者のことをファシリテーター(Facilitator)という。    『ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋』
上記は参考として、僕の持っているイメージではその人の心の中に潜んでいる自分の中心みたいなものをすくいあげて、気付きを学びに変えるような能力の事だと思っていて...。
先日、結婚式の打ち合わせで神戸に帰った時にユカリさんとの打ち合わせが面白かった。


ユカリさんは結婚式のプランニングも「ものづくり」と称す。
まず、自分が企画する上で大切にしている事を伝え、その後、自分たちが呼ぶお客さんはどういった人がいて、それぞれが自分たちにとってどーゆー人達か、だから自分たちがその人達に何をしたくて、どーゆー想いで何を伝えたいのか?っで、どーゆー式にしたいのか...。アウトラインから中心を決めていく。
ソーコーしている内に、気付けば自分たちが気付いていなかった結婚式への想いみたいなものが、ユカリさんの結婚式のプランニングにしてはあまりにも大きいスケッチブックの上に記されているのだ。これは驚いた。
何気ない対話に自分の中の想いがすくい上げていかれているのだ。


その後、うちの家族とユカリさんで食事をすることになり、ユカリさんが自分が何をしているのか紹介して、そのハツラツさと自分は誰かとハッキリ話すユカリさんを見て、母が「こんなに自分を表現できているなんて素晴らしいね。」っと一言。
その一声がずっと残っていて考えていた。

音楽を作っている人間も、野菜を作っている人間も、デザイナーや建築家や教師、編集者、営業の人も、販売員、事務をしている人等々....。いろんな人間が様々な職種を選んで、それぞれ仕事を通して自分というものを投じているわけで。プロであるという事は実は「自分を表現している」という事なのかもしれない。
むしろ、仕事に限らず人は「自分を表現する為に生きている」というのは言い過ぎだろうか?


年末に東京で安藤忠雄展がやっていて、「住吉の長屋」の原寸模型があると聞いていたので足を運んだ。その日はたまたま安藤忠雄の講演があって、ほんの少しだが話を聞く事ができた。そこで言っていたのは「近年、日本は効率化、均一化を図って現在に至る。しかし、人間まで均一化してしまってはダメだ。」という話をしていた。

僕らは小さな時から、特に学校教育ではあーしろこーしろと言われ、する事を与えられ答えを用意されながら育てられてきた。その中で少し人と外れた人、常識のない人間がいたら、後ろ指を指す。常識は常識で理由があって、常識や礼儀がある。それはそれで大切だが、そこから外れた人間を後ろ指さすように見るのはどうかと思う。また、問題も答えも用意されて育ってきているので、用意されたものが無ければ、自分で作る事が出来ない。


皆違う意見があって良いし、皆違っていいんだよ。
自分の道は自分で開いて、自分で歩んでいくんだよ。
頭で分かっている人は多い。
でも、そういった人間や場面に出くわした時にすっと受け入れる人は少ない。
僕もそうだ。


いろいろと脱線したが、皆それぞれ家族とか仲間がいる場所で「自分を出せる場所」があるのに仕事になると、常識だから、自分は悪く言われたくないし、自分を表現しにくい場所だから、表現しない人がいる(表現が下手とか出来ないは別の話)。
その反対に「自分を表現した仕事をしている人」がいる。
その差は何なんだろう?


僕は「人間は自分を表現する為に生きている」っといっても過言ではないと思った。
僕は何で自分を表現していくのだろう。

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