2010/01/20

思いの共有

1月17日は阪神大震災の起きた日で、地震を経験した神戸の人には特別な日だ。
僕にとってもそう。

僕の家や近しい人が幸いにも大きな被害を受けることは無く、食器が壊れたとか、棚が倒れたとかその程度でした。
そんなんやから震災で家族や仲間を亡くした方達が受けた被害や辛さ、傷は計り知れない。

そういう思いを震災には抱いていているので、変に言葉にできないでいる。
言葉にすると嘘っぽくなるというか、自分の覚えている感覚なんて震災に辛さをわかっていないに等しい。だから言葉(ましてや文章)にすることができず、この前の日記もご冥福をお祈り致しますっと記すのが精一杯だった。

震災の日に書かれた地元の同級生のブログやミクシーを読んで、皆感じていることや寂しさは一緒だった。
よく思うことなのですが、結局自分の感じているや思っていることなんて、根本は皆一緒だと思うのです。自分だけが感動しているとか感じているということなんてほとんど無くて、皆同じ感覚を共有している。「嬉しい」「気持ち良い」「素晴らしい」「楽しい」「悲しい」とか個人差はもちろんありますが、同じ経験から得る感覚の根本は皆共通しているんじゃないだろうか?(同じ感覚を共有している人達が集まるというほうが正しいのかねぇ?)

今回、震災で受けた悲しみや辛さは程度に差があれ、皆一緒の思いを抱いていた。
皆同じなんですね。


僕は当時ボーイスカウトに入っていて、震災から数週間後に被害の大きかった地域に炊き出しに行った。その時に県外のいろんな場所から来ているボランティアの人を見て、それが頼もしくもあり、有り難いとお世話になっていたわけではないのに感じたのをはっきり覚えている。
それがずーっと残っていて、ボランティアや環境問題に興味を持って、アフガニスタンにいったり、ボランティアに参加したり、ゴミ拾いをしたりするきっかけにはなった。

震災の前日に震災の時の神戸新聞の記者をとりあげたドラマを見て、いろんなことを思い出した。あの経験を風化させてはいけない、何を学んだんだっというメッセージが込められたドラマだった。
神戸に帰ったら、神戸新聞を頼もう。

もし、近隣の町で大きな災害が起きたら、力になりにいきたい。震災を経験して、ボランティアの人の背中を見たから感じていることなのですが、震災からそんなことを学んだ。
ボランティアはきれいごとではないっと僕は思う。

自分の感じていることをちゃんと感じていたい。
感じたことは形にしたい。

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